院長先生が以前、「治療を任せることができる先生は、どんな人か?」ということについてお話しされました。私は、人柄や頭が良い人だと、咄嗟に思い浮かびました。しかし、そのようではなく、アシスタント(補助)についた時に、次の工程で使う器具を準備できている人また、先の行動を考えて動けている人である。その時、私は、ただ漠然とした解釈でしたが、その言葉の意味について学びを得る機会がありました。
今回、生口島(広島県)への外部研修を通じて、平山郁夫という名画伯について初めて知りました。これだけ、多くの作品を残し、自身の美術館まであると考えると、順風満帆な人生を送っていた人物だと思っていました。ところが、その成功の頂にたどりつく前に、いくつもの試練が待ち受けていました。その苦しく、もがき続けた7年間にスポットを当てていきたいと思います。
【生い立ち】
平山郁夫が絵と出合ったのは母親であるヒサノに勧められて書き始めた絵日記でした。
郁夫が、14歳になった頃、太平洋戦争の真っ只中でした。貧困生活での空腹感と退屈な時間をうめるために絵を描くことが唯一の楽しみになっていきます。やがて、絵を描くことが好きになり、興味を持ち始めた郁夫は、東京藝術大学への入学を決意します。ここで初めて絵画の技法について学ぶことになりました。
私は、実際の美術館の作品から、作風の変化を感じました。それは、幼少期からの作品と見比べると一目瞭然で、郁夫らしさが薄れていっているような気がしました。恐らく郁夫は、今まで絵画の技法を学ぶ機会がなかったため、戸惑いまた、周りの学生たちの技術の高さに圧倒されたのではないかと思います。
さらに、郁夫にとって向かい風が吹きます。それは、世の中の日本画滅亡論の広まりです。この時、郁夫は、一度は画家を諦めて、研究者への道に進もうと考えます。しかし、師匠として尊敬していた前田青邨の言葉により、郁夫は、再び画家になろうと奮起します。その結果、東京藝術大学を2位で卒業しました。自信を取り戻した郁夫は、この年、院展に初めて応募しますが、落選してしまいます。翌年、再度応募し初入選し、以後、入選を重ねていきますが、29歳で白血球が減少してしまう病を患います。
平山郁夫の生い立ちは想像していたものとは違い、苦労の日々でした。
ではどうして、日本を代表する日本画家になれたのでしょうか。
若いころに苦労をすれば、必ず成功するのでしょうか。決してそうではないと思います。
平山郁夫は、1枚の絵を仕上げるのに、大下図や小下図といった下書きを描くことで全体像の構成をしていき、何枚も練習描きをしていきます。そのため、全く同じ絵を描けと言われたら、再現できます。それほど、練習を積み重ねて自身の技術の精度を高めているのです。1枚の作品に対する平山郁夫の情熱を感じます。その情熱を感じ取れるのは、下書きだけではありません。苦しみ続けた学生時代に、一度は画家としての夢を諦めかけますが、再び自身を奮い立たせる姿。自信をもって望んだ院展に落選するも再び挑戦する姿。病に苦しみながらも絵を描き続ける姿。そうした姿を見せることができるのは、夢や目標を持った人間にしかできないと思います。
毎年、新入社員の研修の一環として生口島を訪れているのは、そのような人間になってほしい院長先生の思いがあるからだと思います。院長先生も平山郁夫のように情熱をもってやってきたからこそ、共感するところがあるのだと思います。
【最後に】
冒頭に書きましたアシストができるということは、治療を任せてもいいということ。それは、治療の内容を理解していないとできないことです。それまでの過程に、どれだけ勉強したか。また、どれだけ練習したか。どれだけ壁にぶつかって乗り越えてきたか。それが出来て初めて、一人前の歯科医師になれるのだと思います。
今回の生口島での外部研修を通じて、これからどうしていけば良いのか、道が見えてきた気がします。私も平山郁夫のような人になりたいと思いました。
研修医:A